映画「ちはやふる」とアレクサンダーテクニークと
突然ですが、映画「ちはやふる -結び-」を見てきました。
原作は読んだことが無かったのですが、CSでアニメ一挙放送を行っており、まずはアニメからはまってしまいました。
競技かるたは初めて知りましたが、競技かるたに打ち込む高校生のストーリーは自分の高校時代の部活動などを思い出しとても楽しめました。
そしてさらに興味深く感じたのは、作中で出てくる名台詞たち。
競技かるたを通して、茶道や弓道、はたまた禅の考えに近いセリフがちりばめられています。
アレクサンダーテクニークは禅の考えに通じるものがある、とイギリス人の先生に「弓と禅」の本を読むことを勧められました。
弓と禅(オイゲン・ヘリゲル著)
アレクサンダーテクニークはボディ・ワークの一種に区分されるかと思います。
しかしながら心と身体は一つのユニットであるという基本概念は単なるボディ・ワークの枠組みに収まるものではないと思っています。
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映画の中で、登場人物の一人である周防名人の言葉。
上の句の札が読まれるか読まれないかの瞬間にすでに下の句の書かれた札に手が向かう。その並外れたかるたの強さは、実は失われつつある視力を補う研ぎ澄まされた聴力によるもの。
その周防名人が言う言葉
「聞こえているはずだ。聞こえる音と聞く音の間に線を引いているんだ。聞く音の外側、一線を超えた先の音を聞くんだ」
という言葉がとても印象的でした。
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これはかるたの世界なので札読みの音という観点で話をされていますが、音に限らず、私達は聞こえる音と聞く音、見える景色とみる景色、動ける身体と動かす身体、自分の活動すべてに線を引いているようです。
この線はおそらく「無意識」、「習慣」もしくは「思い込み」。
聴く音の外側、一線を越えた先の音を聞くってものすごく難しい。
なぜなら「聞こえない、聞こえるわけがない」と思いこんでいるから。
なぜなら「今まで聞こえたことが無い」という習慣から抜け出せないから。
でも自分の可能性を信じて向き合うこと。
ただそれだけのことだけどそれが無意識の一線を越えることへの第一歩だと思います。
ランニングでも同じことが言えるのではないでしょうか?
一線を越えた先の走りを考えてみませんか?
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